身近な人が亡くなられると、それをどう受け止めたらいいのか分からずに悲しみに暮れることがあります。
ある方のお宅へ訪問し、親しくお話をさせていただく機会がありました。その方は嫁ぎ先の家で長年暮らし、夫と夫の両親と我が子3人の7人家族で一時期生活をされていました。はたから見れば同居の家族は仲良く見えますが、家庭内のことに関しては他人にはわかりません。
今現在はご両親も亡くなり、夫にも先立たれ、3人の子供たちはそれぞれ嫁ぎ、その方がお一人で仏壇を守っていらっしゃいます。
愛する夫に先立たれ、ひどく落ち込んだ時期もありましたが少しずづ元気を取り戻し生活も安定されているようです。
その方がポツリと『そういえば、姑とは折り合いが悪くていつも泣かされていました…』夫の母親が非常に厳格で、ことあるごとに言葉で責められたそうです。そんな姑も亡くなり久しく経ちますが、今はもう憎いとか、恨めしいとか、そういう思いもなくなってしまったそうです。
私はちょっと意地悪ぽく『もしも目の前に現れたらどうします?』と尋ねるとその方は『いや、それはひっくり返るぐらい驚くし、会いたくもありません』と。まあ、そうでしょうね…。
一人になったその方には、もう一人だけ身内がいます。夫の妹さんで生まれつき障害があり施設で生活されています。
姑が生前中にその方と喧嘩した際には『あんたには娘(義妹)の面倒を看てほしくない』と言われたそうです。
皆さんならどうされますか?
『姑がそう言ったんだからそのようにさせていただきます』となりますか?
その方は今、月に一度施設に訪れ義妹のお世話をされています。姑が娘のために残したお金を少しずつその義妹のために使っています。現在は、新型コロナウイルス感染症のため面会は禁止されていますが、必要なものやお金などは人を通じて渡しているそうです。
人は去っていく(亡くなる)と愛おしい人ならば悲しみに暮れます。それは当然です。
しかし折り合いの悪かった人でも、去っていけばその人を許す思いが生まれてくるのではないでしょうか。いや、憎かった人でも亡くなれば仏様の世界に生まれた方と見ながら、生前の折り合いの悪さも今のこの私の心を育ててくれたものと受け止めることが出来たのでしょう。
だからこそ、憎い姑の娘ではあっても、優しく接することが出来るのでしょう。
厳しい義母はただ厳しかったわけではなく、今思えばその厳しさがあったからこそ、今の自分が一人でも生きていける原動力になっているのかもしれません。
中西智海『ひととき 私を支える「言葉」』より
人は去っても その人のほほえみは去らない
人は去っても その人の言葉は去らない
人は去っても その人のぬくもりは去らない
人は去っても 拝む掌の中に帰ってくる
これは亡き夫への想いになるでしょう。
亡き姑には(筆者自作)
人は去っても その人の憎さは去らない
人は去っても その人からの言葉は去らない
人は去っても その人の冷たさは去らない
でも人は去ったら 拝む掌の中に全てを許し帰ってくる
亡き方々が去来して私の拝む掌を温めてくれています。