―つぎはぎ仏教入門より―

仏教でよく聞く言葉に「輪廻」という言葉があります。
俗に生まれ変わりのことですが、仏教ではこの輪廻からの解放を覚りとみなします。この輪廻はいかにも宗教らしいものですが、決して仏教の本質を表すものではありません。

私たちは輪廻を命や魂がその宿主を替えながら永遠に行き続けること、つまり「永遠の生命」を持つことと捉えています。
しかし仏教では輪廻とは繰り返し受ける「苦しみの世界」にほかなりません。
この苦しみの世界から脱出することが「解脱」とも言います。

この輪廻に関しては私たちは死ねばまた違う人に生まれ変わる。
つまり人生をその都度リセットできることだと捉えているようですが、決してそのような単純なものではありません。

呉 智英氏(評論家)が「つぎはぎ仏教入門」の中でこう記しています。
『魂とは「他ならぬこの私である私」という自我のことである。
自分以外の自我が後世の誰かに生じても、それは輪廻ではない。
誰にもそれぞれの自我があるに決まっているからだ。
この私である自我が後世の誰かに生じるから輪廻になる。
その輪廻主体としての魂がよく理解できない。』

一度死んだ私が前世の記憶を持って生まれれば輪廻したとわかるはずですが、誰も前世の記憶を持って生きている人はいません。
冒頭で「仏教でよく聞く言葉に輪廻というものがあります。」と述べましたが興味深いことにお釈迦様は輪廻について一切答えていません。
しかし釈迦入滅後の二百年余り後に「ミリンダ王の問い」にこの輪廻について詳しく述べておられます。そこでは輪廻主体について次のように論じられています。

※ナーガセーナ=学僧 ※ミリンダ王=ギリシャ系のインド統治者

『ナーガセーナはミリンダ王に問う。
「大王よ、例えばある人が灯火を点じた場合、それは夜通し燃えるでしょうか」ミリンダ王は「尊者よ、そうです。夜通し燃えるでしょう」と答える。
ナーガセーナはさらに問う。
「大王よ、それでは夜の初めの炎と夜更けの炎と夜の終わり頃の炎はそれぞれ別のものでしょうか」ミリンダ王は答える。「尊者よ、そうではありません。同一の〈灯火〉に依存して炎は燃え続けるのです」
そこでナーガセーナはこう説く。
「大王よ、事象の連続はそれと同様に継続するのです」

炎とは物ではなく「現象」であり、それは変化し継続している事です。
自我というのもそれと同じで実態ではなく現象であり「事」なのです。

さらに続けてナーガセーナはミリンダ王に説きます。
「大王よ、ある人が一つの灯火から他の灯火に火を転ずる場合に灯火から他の灯火に転移するのですか。そうではありません。それと同様に一つの身体から他の身体に輪廻の主体が転移するのではなく、しかもまた生まれるのです」
「大王よ、あなたが幼かった頃、師のもとで詩を学んだことを覚えておられるでしょう。その詩は、師からあなたに転移したものですか。そうではありません。それと同時に一つの身体から他の身体に輪廻の主体が転移するのではなく、しかもまた生まれるのです」

ここでミリンダ王が問う。
「尊者よ、あなたは次の世に生を結ぶますか」
ナーガセーナはこう答えます。
「大王よ、おやめなさい。私はこういったではありませんか。もしも私が生への執着を持っているならば、次の世に生を選ぶことでしょう。またもしも執着を持っていないなら次の世に生を結ぶことはないでしょう」

ナーガセーナは輪廻からの解放、すなわち解脱について、輪廻は「永遠の生命」という良い意味ではなく「苦しみの生の連続」として捉え、そして「無限に永続するこの私」すなわち「魂」を続く対話で否定いたします。

ミリンダ王は問う。
「尊者ナーガセーナよ、霊魂の存在は認められますか」
ナーガセーナは答える。
「大王よ、勝義においては霊魂の存在は認められません」

輪廻とはこの私の迷いから生じるものであり、迷うからこそ輪廻が生じるのです。その輪廻する主体は迷いから生じる「魂」という仮のものを自我と看做し、永遠の命を生きようとする欲望がその魂を作っているのではないでしょうか。

「勝義においては」とは「悟りの境地からみれば」ということであります。


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