「どこだった?」
「ぼくら落合です。火葬場がある葬斎場がいいってことで」
「わたしは町屋」
「こうもお通夜が重なるなんて妙な巡り合わせだな」
「なに書いてんの?」
「オレももう年だから、あと何回晩メシが喰えるかわからないから、ちゃんと忘れないように…、それでこうやって書くとさ、一回一回の晩メシを大事にしようって気になるんだよ」

店の前で通夜帰り互いに清め塩をかけ合う二人が店に入る。
「あげる。ゆで卵にでも使って」居合わせた客に清め塩を渡す。
店に入った途端連れの一人のお腹が「グ~~」となる。
「人間って悲しい時でも腹が減るのよね」

行きつけの居酒屋の常連達が、偶然別々の通夜帰りに一緒になってしまった場面

そこへヤクザ二人組の常連も登場、もちろん喪服姿
「どこですか?」
「本願寺だよ」
「築地ですか」
「大物だよ」

そこへまた喪服姿の一人の女性が登場し、先ほど清め塩を貰った客が
「塩どうですか?」
「私は結構です」

ある映画の一場面ですが、このやり取りを観ていると考えさせられる言葉があります。

「火葬場がある葬斎場がいいってことで」
これは最近の東京の葬儀場火葬場まで併設していて、火葬場までいく手間が省け、近くて便利なことを表していますが、出棺から火葬場までいく時間のなかに
故人と過ごした思い出に浸り、車窓からみえる風景に季節を感じながら亡き人
送った日には菜の花が咲いていたとか記憶に残るのではないでしょうか。
もちろん東京は都会なので見える風景はビルや建物ばかりかも知れませんが、故人の人生最後の日の時間を大切に過ごして欲しいものです。

「こうもお通夜が重なるなんて妙な巡り合わせだな」
人口1400万人が暮らす東京で亡くなる人は日常的に非常に多く、亡くなってから火葬されるまでの日数は平均5~6日かかるそうです。
これは火葬場が人口に対して数が少なく、一日に200人以上の方が亡くなっても公営の火葬場では追い付かない状態です。
一人の葬儀に対して参列者が100人と考えれば、一日に喪服の方が2万人いることになります。

「オレももう年だから、あと何回晩メシが喰えるかわからないから、ちゃんと忘れないように…、それでこうやって書くとさ、一回一回の晩メシを大事にしようって気になるんだよ」
普段はそんなことを考えないけれども、通夜帰りの人達とたまたま出会うと、人の世の無常や儚さに触れ、なんとなく寂しさを感じ、無駄に人生を送らずに一日一日を大切にしようという気になります。
縁に触れて考えることはとても大切なことではないでしょうか。

店の前で清め塩をかけあう二人
現在「浄土真宗ではお清めの塩は使用いたしません」と火葬場から帰ってくると斎場の玄関に看板が設置されていることがありますが、今でも当たり前のように通夜帰りに自宅へ戻ると玄関前で清め塩が使われるようです。
浄土真宗葬儀の場合は、斎場の入り口にそう書かれた看板が設置され、お清めの塩もありませんので、もちろん清め塩は使用できないのは仕方がない。
だけどやはり自宅へ帰ったときだけは、家にいる人が塩を用意して待ち構え、まるで節分の豆まきのように塩をかけます。
清めの塩は必要ありませんと言われても我が家には不浄なものが付いてきては困るという心理的な働きが塩で清めるという行為につながっているのでしょう。
しかし、人の死を霊にまつわるものと見做し、塩で清められるという根拠がどこにあるのでしょうか。
ナメクジならいざ知らず、霊は塩で溶けるのか、はたまた逃げるのかわかりませんが、人の死をケガレと見てそれが自分に来ないように清めようとする考え方から変えていかなくてはなりません。

「私の大切な子供が亡くなりました。言葉に表せないほど悲しい葬儀でした」
「私の愛する夫が亡くなりました。辛い寂しい、もう一度会いたい、そんな思いの葬儀でした」
その葬儀が終わり自宅へ戻りました。その時でもお清めの塩を使いますか?
愛しい我が子の死を
愛する夫の死がケガレていると感じますか?
清めの塩を使うことは亡き人に対する冒涜ではないでしょうか?

しかし、店の前で行われた入店前の清め塩には一考の余地があります。
この二人は不浄なものが私たちに憑いてきて、この馴染みのお店の迷惑になってはいけないからという縁起を気にしてのゲン担ぎです。
そのあとこの二人が店に入れば、本来なら「聖なる清めの塩」を大切にしなければなりませんが、居合わせた客に「ゆで卵にでも使って」とあっさり渡してしまいます。
結局、塩は正しくお料理に使うことをお薦めいたします。

[グ~~」とお腹がなり「人間は悲しい時でもお腹が減るものよね」
まさにその通りで、私たち人間の感情、喜怒哀楽とは一時的なものであって決して長続きするものではありません。悲しいから、ずーっと死ぬまで悲しいかと言ったらそうではありませんね。良いこともあれば悪いこともある、嬉しいこともあれば悲しいこともある
その時々で私の感情はコロコロと変わってしまいます。
悲しい時は大いに泣く、そして嬉しい時には大いに笑う、それでこそ人生です。

ヤクザ二人組の常連も登場「本願寺だよ」
これは東京築地本願寺葬儀が行われたということです。
築地本願寺は東京の名刹で、中村勘九郎さん、勝新太郎さん、X-JAPANのhideさん、他にも三島由紀夫さん、竹下登元首相などの葬儀が行われ、有名人、著名人が葬儀を行うことがステータスとなっています。
著名人の葬儀が行われた場所だから自分もそこで葬儀を出したいと思うのは聖地巡礼のようですが、わからないではありません。
しかし、本来の葬儀故人の死を心から悲しみ、哀悼の念を持った人たちが参列
するのが本当ではないでしょうか。
「私の葬儀には誰が参列してくれるだろう?」
葬儀の最中に霊となって会場の上から見下ろすことができたら、見たことのない人が誦経の最中居眠りしていたり、おしゃべりして笑っているかも…
「こら!ちゃんとしろ!」そう言いたいけど霊の言葉は届かないのでは…

「塩どうですか?」「私は結構です」
縁起を担ぐ人もいれば、そのような迷信は信じない人もいるでしょう。
ならば幽霊霊魂なんて存在しない、人は死んだら「無」になる、何もなくなってしまう。果たしてこれは正確でしょうか。
「人は死んだらゴミになる」
ある著名人の残した言葉ですが、これを聞いたこの方の奥様は涙を流し「ならば私はゴミに拝めばいいのですか‼」と食ってかかったそうです。
ゴミになる人生を歩むのならば、とても虚しく悲しい人生ではないでしょうか。「人は死んだら想い出になる」
私が死ぬことは人生の一大事ですが
死の先を人智を越えたものとして、明るい未来としてポジティブに歩むとき
私の死は全てを任せながら、せめて残る家族や友人には、前向きに生きた私の人生を、楽しい思い出としてくれたら生きた証、生きがいのある人生といえるのではないでしょうか。

映画のストーリーはセリフとは違い、予想外の展開になりますが…
セリフ一つ一つから見えてくる普段使う言葉が、当たり前のこととして見ていたことに反省させられました。

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