葬儀の時、喪主施主様にあらかじめ確認いたします。
法名の上に院号をお付けしますか?』ご年配の方は『院号』というものがあることをご存じなので『付けてください』『必要ありません』とご返答くださいますが、今の30~40代の方は『院号とは何ですか?』とその存在すら知らない方が多いようです。
院号を知っているご年配の方でも、いざ院号とは何かと問われれば、院号を付けると死後良い処へ行けるととか、死んだ後ハクが付くから院号を付けるとか、その意味づけは様々です。

院号の『院』とは『垣根を巡らせた大きな建物』を指す言葉で、もともとは天皇が退位後に住まいとする建物の呼び名でした。その後、各宗派で戒名や法名の上に冠して用いられるようになったのが『院号』です。

このように院号の始まりが天皇に関係することから、院号を付けると身分が高くなるような思いを抱くかも知れませんが、決して死後の肩書が良くなることではありません。

葬儀の際に院号の話をすると『必要ありません』とされる方には『亡くなってからそんな余計なものを付けてなくても良い』とする考えからでしょう。私は院号を付けるか否かについては上記のような説明はしませんがこのように言います。
亡くなった方へのお敬いの気持ちで付けられてはいかがですか?』と。

ここで話はそれますが、倫理思想家としてチベット仏教学者の吉村均さんは『神との倫理思想』の中でこう書いています。

『輪廻とは単に死後の生があるということではなく、ひとつの行為はそれで完結せずそれによって次の行為が引き起こされていく行為の連鎖のことである。
そのために私たちの生もいきなりゼロから始まったわけではなく、また死んで突然ゼロになってしまうこともないと考える。』

亡き人を敬う心は誰にでもあるはずです。亡くなった方にはもうその思いは伝わらない。何もしてあげることが出来ない。果たしてそうでしょうか?
人は死んでゼロになってしまわないのならその思いを敬いの表れとしての言葉(院号)にして偲んであげてはいかがですか?

「行為の連鎖」が輪廻ならば、亡き人を敬い院号を付けることは「良い行為の連鎖」となるのではないでしょうか。

亡き方々もその思いをきっと受けて喜んでくれるはずです。

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